今日は7月11日(木曜日)です。先ほどから雨がぱらついてきました。今日も、梅雨空、偏東風のようです。部屋の温度は26℃です。円も1ドル100円を割り込んでいます。
過去二度の参院選挙をともに経験し、先輩でもある友人(又市征治)の当選を願っているカバとしては、戦局をながめるにつけても日本人の民族的マイナス面(大衆迎合的劇場型選挙志向とそれに反発する人の無関心を装う無常感)の病態をなんとかしたいと思うのだが、哀しいかな力不足であることは否めません。
この頃、少しずつではあるがほぼ毎日、魯迅の「阿Q正伝」を読んでいます。竹内好訳ではなく増田渉訳の文庫本の解説を読んでなるほどと思いました。
「『阿Q正伝』は魯迅の作家的存在を文学史に大きく位置づけ、またしっかりと定着させた代表作である。作者は『私はどうして小説を書くようになったか』の中で、『私の取材は、多く病態社会の不幸な人たちの中からとったが、その意図はその意図は病苦を掲げ示して、治療の注意を喚起するにあった』といっている。このことばはもとより彼の作品を全体にわたっていえるわけだが、しかしこのような意図による作者の文学は、とくに『阿Q正伝』において最も集約的に、そして最も典型的に描き出されているということができよう。この小説は、もと新聞の付録版に、毎週一回、一章ずつ連載され、はじめ編集者から、気晴らしの読物という注文で書かれたというし、署名も魯迅とはせず、「巴人」(未開な野人の意味)とした(『阿Q正伝的成因』)。だから特に書き出しの部分などは滑稽な調子で、ふざけたような筆づかいが見える。しかしいつの間にか作者の生地が出てきて、民族的マイナス面への悲しみを叱咤になっていく。この幾分ふざけた調子も、作者のいう病態社会に対する風刺のサビを一そう効果的にしていると思うが、その中であやつられ、うごめく民族的なマイナス面として典型化された阿Qも、一片の同情を禁じ得ない人間像としてわれわれに印象付けられる。この作品はだが作者が身をもって経験し、青春の情熱を注ぎ込んだいわゆる「辛亥革命」(1911年)の内臓を痛烈にあばき、その失敗を教訓として再び新しい民族的決意を促す主題が強くつらぬかれている。国民的なマイナス面を手ひどく突いたのは、つまりは次の段階への啓示としてであった。」
カバは福島第一原発事故を経験し、その悲惨さから抜け出さないままに、参院選挙を一方ではお祭り騒ぎのアベノミクス人気投票化させ、別の一方では「何もよくならない、何も変わらない」という無常感、虚無感で無関心を装う日本型病態社会に対して、滅亡の前に民族的決意を促す小説を書ければいいと思います。とても、無理ではありますが。

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