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2013年5月18日土曜日

明日は「遙」のさよならパーティー

 明日は午後から同人誌「遙」のさよならパーティだ。2002年5月に創刊し、この4月に60号を発行して終刊を迎えた。まる11年間の活動の軌跡をパーティで振り返り、招待客も含め57人でお祝いをする。カバは遙の全号の搬入展示搬出の役目と、受付ならびに招待者の案内の係りだ。どんなパーティになるのかいまから心が躍る。
 明日は公務のため出席できないという元同人の鹿内博さんが、2009年2月発行の遙39号に「青森市長選挙に出ます」を寄せている。
 読み返してみて、カバも初心を忘れないようにしようと思ったので、紹介する。

 「4月19日投票の、青森市長選挙に立候補することに決め、1月16日に記者会見を開き、正式に発表しました。
 これからは投票(日)に向かって、ひたすら走り続けます。立候補を決意したのが1月7日ですから、約百日間の闘いということになります。
 どんな百日になり、どんな結果が待っているのか、まったく予測できません。
 この百日間、ひたすら私の青森市への思いを語り続けたいと思っています。
 
 
 私が青森市を意識しだしたのは、多分、高校を卒業し、岐阜で長距離トラックに乗り、青森市を離れて生活した頃と思います。
 青森市から離れて、青森市の良さ、ふるさとの有り難さがわかったように思います。
 青森市に帰って、青年サークルに入り、青年活動をし、少しだけ地域の問題に関心を持つようになりました。
 昭和43年、県新生活協議会なる県の外郭団体に就職し、県内の社会教育活動や町内会活動、婦人活動の手伝いをするようになりました。この時から、自分でも市民の一人として地域の問題に関わらなければ、仕事でいくらいいことを言っても、相手には通じないと感じるようになり、青年活動の内容として、地域の問題を多く取り上げるようになりました。
 初めて青森市議会議員選挙に立候補したのが二十五歳の時で、この時は被選挙権の大事さを訴え、青年の政治への関心を高めようと、たまたま25歳の私が立候補することになった選挙でした。
 二回目の29歳の時と二度続けて落選し、当選したのは三度目の正直でした。負けたままでは終わりたくないというのが、三度続けた本音であったと思います。
 
 26歳の時から「私たちのねぶた」を始め、青函連絡船存続運動にも参加し、野内川や八甲田山、白神山地の自然保護運動にも関わり、津軽弁の日や、あおもり100キロ歩く会の活動もやるようになりました。
 原点は、青森が好きだからです。自分が生まれ育った青森市が、子供たちにも「好きな青森市」として伝えたかったからです。そして、自分でできることを、できるなら長く続けたい、仲間と一緒に楽しくやりたいと思い、活動に参加してきました。
 青森市議会を辞めて県議選に立候補したのは、六ヶ所村の核燃サイクル計画を止めさせるためでした。
 青森市が良くなるには、県政の「生命」を脅かす政策を止めさせて、県政を良くしなければならない、との思いでした。
 その原子力政策に終止符を打てずに県議会を去るのが最大の心残りです。
 県政にも多くの課題がある中で、議会の少ない野党勢力が、私が辞めることで更に少なくなることへの自責の念もあります。
 でも、こうも考えました。県議の立ち場から、県都の青森市長の立ち場に変わっても、県政に対しては、発言力や影響力も行使できる。青森市政を変えれば、他の市町村も変わり、県政も変わる。青森市がさまざまな政策や自治体のあり方のモデルとして変われば、県だけでなく、国も変わるはずだと。
 皆、自分のふるさと、青森市を好きなはずです。その青森市がもっと好きになるような青森市に、そして青森県になるように、百日間、走り続けます。
 でも、時には休みます。」

 
 なかなかいい文章だと思う。鹿内さんの4年前の思いが良く伝わってくる。カバも、まもなく64歳になる。来年は65歳。青森市で生まれ、青森市で育ち、青森市で結婚し、4人の子を育てあげ、いま青森市で死んでいこうと決意し、もっともっと青森市を好きになり、子供たちや孫たちのために青森市に恩返しをしたいと思っている。そう思うと、熱いものが胸からこみあげてくる。
 何をするのか、何ができるのか、よく考えて、書き、語り、そして行動したい。

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