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2012年10月22日月曜日

論語「温故知新」の真の意味とは?

 孔子の論語の第1篇「学而第一」の最初の章「子曰、學而時習之、不亦説乎。有朋遠方来、不亦楽乎。人不知而不慍、不亦君子乎。」の読み下し文は、「子曰く、学んで時に之を習ふ。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。人知らず、而(しこう)して慍(いか)らず、亦君子ならずや。」でした。この章の解説を加えた意味は、「先覚者に従って聖賢の道を学び、絶えずこれを復習して熟達するようにする。そうすると智が開け道が明らかになって、ちょうど今まで(水に)浮くこともできなかった者がたちまち游(およ)げるようになったものであるから、まことに喜ばしいことではないか。また、このように己の学問が成就すると、己と同じく道に志す人たちが、近い処はいうに及ばず、遠い処からまでも訪ねて来て、共に善に帰することができるのであるから、なんと楽しいことではないか。学問はもともと己の人格を完成させるためにするものであるから、己の学問の成就したことを人が知らなくても、泰然自若として、少しも不平らしい心を起こさない。このように、専ら道を楽しんで、境遇の如何によって心を動かさないのは、まことに理想的な人格者ではないか。」となります。このように、孔子が述べていることから全20篇の第1篇の第1章がはじまっています。 
 そして、この「學而時習之」(学びてときに之を習う)が第2篇「為政第二」の第11章「温故而知新、可以爲師焉」(故きを温ねて新しきを知れば、以て師となるべし)では、孔子はさらに一歩進んで、「ふるく学んだ所を習熟して、新たに悟る所があるようになれば、学んだ所の事が我が物となって、無窮の事柄に応ずることができるようになるので、人の師となる資格がある」のだと、教えています。このように孔子は、ただ人から、本から聞いたことを覚えているだけでは、知る所に限りがあるので、人の師となって人の求めることに応ずることはできないと言っています。
 つまり、「学問はもともと己の人格を完成させるためにするものであるから、己の学問が成就したことを人が知らなくても、泰然自若として、少しも不平らしい心を起こさない。このように、専ら道を楽しんで、境遇の如何によって心を動かさないのは、まことに理想的な人格者と言えるのではないか」と孔子が述べているのです。ここに「温故知新」の真の意味があるのです。

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