2012年7月4日水曜日
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
福島第1原発事故のことや、今日営業運転を再開する関電の大飯原発3号機のことを思うにつけて、福島県民の、いや日本と日本人の誤った選択の天罰を受けているのかもしれないと思った。思えば22年前、核燃料サイクルを争点にたたかわれた青森県知事選挙で「青森県民は核燃推進を選択した」のだった。その誤った選択の罪と罰を青森県民はいつか受けなければならないのだろうか、そんなことを夢うつつに考えて目覚めた。
寺山修司のこの短歌を初めてカバに教えてくれたが金澤茂弁護士であった。青森県六ケ所村に建設されていた核燃サイクル施設の白紙撤回を掲げて青森県知事選挙に立候補を決めた金澤弁護士は、県内各地を「この知事選挙は核燃サイクル白紙撤回の最後のチャンス」と訴えてまわった。カバはそのとき90日あまり、金澤弁護士の秘書兼運転手をつとめた。その先々で金澤弁護士は、あるときは挨拶の最初に、あるときは結語に、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と中学、高校の同級生の短歌を披露したのだった。
カバは、三沢の小川原湖畔の寺山修司の歌碑の前で、金澤弁護士が立候補の決意をかつての級友に告げたときの感動を忘れることができない。カバには碑石の下で寺山修司が「祖国のために身を捨てて頑張ってくれ」と励ましてくれているように思えたのだった。
1991年2月の投開票日の霙降る夜、金澤弁護士は両ポケットに二つの挨拶文を用意して、開票待ち会場に向かった。結果は、「今日の結果は、青森県民の良識の証明、日本の夜明け、青森県の夜明けにつながる」とした一方の文章は読まれることはなく、「青森県民は核燃サイクル白紙撤回する最後のチャンスを逃してしまった。その責任はすべて私自身にある」と無念の思いをにじませて声を震わせたのだった。その日から、全てをなげうつ思いで県知事選挙に臨み、「核燃サイクル白紙撤回の最後のチャンス」と県民に訴えた金澤弁護士は、核燃サイクル問題については二度と先頭に立つことはなかった。それが金澤弁護士の責任の取り方だった。
しかし、反核燃の運動の第一線から退いた金澤弁護士も、反核燃の運動を陰で支え続けるとともに、日本国憲法を守ることの運動の先頭に立って頑張り続けている。反骨、反権力の信念はいまだ健在だ。
あれから20年が経ち、東日本大震災と福島第1原発事故が起こった。あのとき青森県民が金澤茂知事を誕生させ、核燃を白紙撤回させて、その関連で福島第1原発を廃炉に追い込んでおけば、この悲惨な結果にはならなかったのではないか、と思うとカバは胸が痛むのだった。
青森県民は1991年2月の知事選挙において誤った選択をした罪と責任をどうとり、その罰をどう受けるのだろうか。その罪と罰は、核燃推進の北村知事を支持し当選させた県民だけでなく、核燃白紙撤回を掲げ善戦したものの当選できなかった金澤茂弁護士を支持した多くの県民にもあるのだと思う。誤った選択による、誤った政策の遂行は、かならずや後代の子孫に悪い影響を与えるからだ。
カバは深い自省自責の念とともに、今朝も「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と口づさんだのだった。
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