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2011年8月24日水曜日

22日は遙の例会、23日は川柳教室休んで十和田へ

 日曜日のカバは一日中、一階のパソコンに向かって、例の「高速道路無料開放をめぐる青森市の被災証明の発行」に関する原稿書きに明け暮れた。何しろ、前夜の同窓会とその後の同期会の余韻さめやらぬなかでの作業ではかどらない。結局、一日一膳で頑張って、どうやら書き上げたと思ったら22日の午前3時だった。
 送信し終えて、床に就くもどうにも眠れない。結局、時計を最後に見たのは4時少し前。22日はさすがに8時に起きるのがやっと。二日酔いは消えていたが、頭はすっきりせず、さりとて北の街社の原稿のことも気になっていた。10月15日にやる「清川波之丞落語会」(午後6時から新町旧翁屋ホール)の案内原稿と9月1日号のコラムの原稿だ。「星も凍る町」の最後の詰めも終わっていなかった。中途半端なままパソコンを背に9時半のバスに乗る。
 10時10分前に事務所に着き、空気を入れ替え、掃除をし、珈琲を淹れたところに三国谷君登場。彼は毎日市役所に通っているようだ。行政文書の情報開示を求め、とことんやるつもりらしい。彼の市役所改革に対する熱意に頭が下がる思いとともに、どこにそんなエネルギーが潜んでいるのか、と不思議なくらいだ。続いて大家の水口君も珈琲の匂いを嗅ぎつけて二階の階段を上ってくる。三国谷君持参の浅草焼きの饅頭を食べながら市政のこと、国政の動向の話題に花を咲かせていると、清水女史が看病の合間をぬって笑いをもらいにやってきた。途中仕事が入って下に降りた水口君が欠けたが、三人で12時45分まで歓談したが、清水女史の看病疲れを癒すことはできなかった。
 市役所大改革どころか、旧態依然たる体質は改まるどころか、却って悪くなっているのではないか、との危惧を抱いているのは、もはや多数になっているのではと、またぞろ2年後が心配になってきたところで、その日に懇談はお開きとした。
 カバは車で来た清水女史に浪館前田まで送ってもらい、家で原稿書きをすることにした。1時05分から2時30分までかけて「清川波之丞落語会」の原稿1400字を書き終えた。これでひと安心。次のコラムに取りかかるまで松竹アムゼへ映画を見に行くことにした。「ナチス、偽りの楽園」を観るつもりで行ったが、招待券は29日からでしか使えないとのことで、やむなくポケモンにしたが、やはり耐えきれず5分で出てきた。
 そのあと、家に帰ってコラムの原稿書きにとりかかるも、孔子の「巧言令色すくなし仁」のことを太宰治の「死ぬるまで巧言令色」とくらべて書こうと思ったのだが、なかなか書けないでこれまた時間切れ。
 5時14分のバスに間に合うように家を飛び出る。バス停で杉村元市議にばったり。大先輩も遙のメンバーだが、その日は先に平山カッパ先生の告別式に顔を出すという。古川で降りるとすぐ沢山行きのバスが来て、それに乗る。5時25分で文化会館前に到着。カバは番地石材の石灯籠の脇を通って千成寿司まで。先着は前田悠々さんと2人の同人女史。入り口であった駒田氏は前立腺の手術をして退院して休養中とのこと。少し痩せたようだ。「核燃いらない市民の会」の本間住職もそういえば軽いクモ膜下出血で6月に脳の手術をされたと先月の例会で聞いたばかり。隣に座った木村宏君から「あなたも気をつけなさい」とカバも勧告される。
 パーキンソン病の西崎氏の加わり、奥の座敷テーブルは近況報告ならぬ、病状報告のオンパレード。そんななか中里先生だけがボン大学から留学の許可証が届いたとあとは語学試験だけだと元気なのがひときわ目についた。ビールと焼酎をたらふく飲んだあと、中里先生に送られて、金澤先生と杉村大先輩と一緒に家路についたのでした。
 酒の酔いと前夜の睡眠不足により、机に向かう気力もなく、カバはまたまた怠けてしまった。そんなわけで熟睡したまま、朝7時に三男から起こされる。雨が降っているので、途中まで乗せてくれと要求され、しかたなく原稿のことを気にしながら家を出る。雨の日、やはり少し道は混んでいた。渋滞というほどではなかったが、いつもは柳町まで10分ほどなのが、15分もかかってしまい、家に戻った時は朝ドラが半ばを過ぎていた。今度こそと思い、二階の書斎でコラムの続きをやった。浪之丞の原稿は比較的すんなり書けたのに、人類の教師たる4聖から始めたのが災いして、なかなか筆が進まない。結局、完成したのが12時をすぎていた。さらに、「星も凍る町」の最後を漸く書き終えところで12時50分になっていた。原稿用紙80枚だ。これをできれば60枚まで推敲して削りたいと思う。
 結局、推敲の作業にとりかかったところで1時になってしまい、おかじょうき川柳教室は欠席とあいなってしまった。むさし師の博学な語りを聴けないのが残念だが、もうひとつ作業が残っていた。今夜の「福島第1原発事故の学習会」のレジメができていなかった。A4判24枚じゃレジメとは言えないが、とにかく前に作っていた原稿を削って、とにかくあとで読んでもらえばいいと資料ということで2時まで手直しをして、日土氏へ印刷を依頼する。4時15分の出発時間まで、小説の推敲を開始。辞書調べもきちんとしようと広辞苑を引いた個所もきちんとペーストしておくことにした。最近特によく忘れるから関連したものは保存しておくに限る。1600字で1ページの書式の原稿を5ページ推敲したところで時間がきてしまった。
 4時10分に家を出て、途中事務所により、前に作って置いた今回の福島第1原発事故関係の原稿資料を手に日土氏の事務所で裏表24ページのものが50部きちんと印刷されていた。
 雨が激しく降る中、田代高原まわりで十和田へ山越えして行った。会場には5時50分に着いた。始まったのは6時15分きっかり。福島県からみえた講師の佐藤さんは、この3月まで双葉地区で郵便局の仕事をされていた人で、家族も原発の関連会社に勤めているということだった。事故の厳しい放射能の下に曝されているからだが、住むこと、植物、生物、農産物・畜産物など測り知れないほどの被害が予想されるなか、今後の生活に対する不安感の多いさを生活レベルの視線で静かに語られた。
 8時に会場を出て、来た山道に出て、漸く午後9時20分に家に到着したのだった。そして、今夜も何もしないうちに、とうとう午前2時なってしまった。

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