柴田翔の「犬は空を飛ぶか」のなかに「革命者たちの背理」という文章に高橋和巳のことを書いた「真摯なる深酒」という短文があるので、勉強のために抜き書きする。
高橋和巳は姿勢の正しい男である。会合などのあとで、酒を飲む姿を見ることも多いが、そういう時でも、高橋は、その整った顔をややうつむけ加減に、憂愁に曇らせながら、全体の姿勢はほとんど崩すことなく、杯を重ねる。ちょっとやそっとのことでは、酔っているのか酔っていないのか、まったく判らない。それは、騒々しい深夜の飲み屋やバーの薄明かりのなかで、そこだけ中国古典の秩序感、というよりは、昔、高校で習った漢文の字画の多い漢字の堅牢さが領しているかのようである。酒を飲んでも飲まなくても、からきしだらしのない私などは、深夜の疲れに、背をまるめて椅子に沈み込み、そうした高橋の姿に感嘆するばかりである。
真継伸彦は、酒がまわってくると「そうや、そうや」とか、「私は、そう、信じております」とか、吃りつつも無闇やたらに明快に断言しながら、いかにも楽しそうに、身体をゆさぶり文字通り盃を高く挙げて飲み続ける。高橋も酒を好きで、飲むことを楽しむのに違いはないのだろうが、そうした真継の陽気さに比べると、どうも大分、違った楽しみ方のようである。別に陰気な訳ではない。いわば、高橋は盃を重ねることを楽しんでいるらしいのである。飲み屋のおかみと冗談や世話話をするにも真摯なのであり、その真摯さにおいて、確かな楽しさが、姿勢正しい高橋和巳の全身に浸み渡って行くようなのである。
酒に弱い私は、高橋がとことん酔いつぶれるところまで、つき合ったことはないが、伝え聞くところによると、高橋が泥酔することもない訳ではないらしい。だが、私は、ひそかに、彼は泥酔する時でさえ、姿勢正しいまま、ひたすら盃を重ね、泥酔へ向って、いわば努力しているのではないかと、想像している。盃を重ねる彼を内側からつき動かしているのは「よし。とことんまで酔ってやれ」という重い決意であり、その決意の果てがたとえ泥酔というひとつの破滅であっても-というよりは、まさに破滅であればこそ、そこへ向って、ひたすら努力する。姿勢正しいまま盃を重ね粋を深め、突然、泥酔のなかに崩れて行く瞬間の高橋和巳を、一度見てみたいというのが、私の願いである。
「いや、おそらく、彼がなにかある理想を胸にいだいたこと、それが彼を滅ぼしたのだ。人が滅びるのは、自堕落によってではない。むしろそう、その人間を勇気づける理想によってなのだ。」(『堕落』)
高橋の小説の主人公たちの大部分は、社会のあるべき在り方を思い描く理想家たちである。彼らは、その理想のための努力、真摯さにおいて、自己の生命を確認する。しかし更に言えばその努力、真摯さにもかかわらず、まさにその理想によせる努力、真摯さの故に、彼らは必然的に破滅して行き、そして、その必然的破滅の目もくらむような下降速度のうちに彼らは自己の生命感を味わう。時として、彼らは、自己の生命感を味わうためにむしろ破滅をこそ望み、むしろ破滅を望むためにこそ、社会と、なかんずく自分に対する理想を、止まることを知らずに高めて行くのだと見えることもある。

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