私は小説を書く、何かの力を得ようと、柴田翔の「犬は空を飛ぶか」を読んでいる。
―では、拮抗しつつ、つながるとはどういうことか。芸術作品は、ジャンルによって異なるが、すべて何らかの素材によってできている。音楽なら音、絵画なら色と平面的形、彫刻なら材料と立体的形等々。そして、芸術と世界の間の拮抗しつつつながる関係を仲介するのは、それらの素材である。
例を小説にとれば、小説の素材は言葉である。そして、小説は、言葉によって世界から飛び立つが、また言葉によって世界に結びつけられる。
小説は言葉によってつくられるが、とりわけ言葉の持つ意味によってつくられている。小説のなかに「犬が通りを歩いている」という文章があれば、それは、その音や字の印象よりも、まずその文章の持つ意味を伝えようとしている。そして読み手は、彼が現実の世界のうちに知るところの「犬」「通り」「歩く」という事物あるいは動作を自分のなかに甦らすことによって、その文章を読む。その文章は、書き手の想像のなかに呼び起された情景を内容としながら、それらの単語が現実界の事物あるいは動作と結びつけられている限りにおいて、現実の世界と結びつけられている。
これは更に次のようにも説明できよう。「犬が通りを歩いている」という文章と、「犬が空を飛んでいる」という文章は、純文法的には並列させうる二文、いわば等価の二文である。だが、小説においては、この二つの文章は、まったく異なる意味を持つ。何故なら、読み手は無意識のうちに、犬は地上を歩いていても、空を飛ぶことはないという、彼の現実世界における経験との対比において、その文章を読むからであるが。現実の経験に反する文章、「犬が空を飛んでいる」という文章、を小説において書くのが誤りであるのではない。それは作家の想像力の自由に属する。ただ、彼は、それが現実の経験的事実に反することを意識しつつ、かつ、その反事実とも言うべき叙述を支えるべく自分の精神を緊張させつつ、それを書かなければならない。そうでなければ、読み手はそこに書き手の恣意を感じて、白けた気分になってしまう。―
柴田翔は作者が「犬が空を飛んでいる」と書く場合、その反事実とも言うべき叙述を支えるべく自分の精神を緊張させつつ、それを書かなければならない、と主張する。そうでなければ、読み手は、白けた気分になってしまうとも書いている。作者は、自分の描く世界が現実にはありえないのだという意識、そこから生まれる緊張感なしには、書いた小説が読むに堪えないものになってしまうと警告する。自らの想像力の自由がいくらあるからといって、自らの好む世界をえがく権利すら、しらじらしいものになってしまうと倉橋由美子の『夢の浮橋』を例にとって詳述している。作者が現実と似ても似つかないということを意識せずに、つまり自分が夢を語っているのだということを作者が意識せずに、つまり夢を語るものの必死さを持たずに、世界が自分の哲学で解釈できるかの如く錯覚した時、読者は白々しい思いをしない訳にはいかない、と柴田翔は倉橋由美子を批判する。

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