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2015年9月23日水曜日

9月23日、粟の穂のここを叩くなこの墓を

 今日は9月23日、秋分の日です。これから、朝一番の飛行機で東京です。昼からの集会に出てきます。

 三沢の廣澤牧場旧会津藩士廣澤安任のことを、新城の佐々木高雄さんから聞きしました。
  廣澤安任; 広沢庄助の次男。文久2年(1862)、会津藩主・松平容保京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。
その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。
また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。当初は地元の反対、資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している。なお、明治9年(1876)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。養嗣子に甥の辨二を迎えた。辨二は駒場農学校を卒業した議院議員である。
佐々木さんからは、もう一人彼が影響をうけた人物として詩人の村次郎を紹介されました。
  村次郎; 詩人・村次郎は、1916(大正5)年、 三戸郡鮫村(現・八戸市鮫町)の石田家旅館の長男として生まれました。 慶應義塾大学でフランス文学を学び、詩誌「山の樹」を中心に作品を発表。中村真一郎や芥川比呂志、 小山正孝らとともに活躍し、将来を嘱望されました。 戦後、応召先の中国から八戸に帰還、「あのなっす・そさえて」を設立して郷里の文芸復興に努めま した。詩集『忘魚の歌』(昭和22年) 『風の歌』(昭和23年)を刊行しましたが、昭和27年、実家・石田 家旅館の再建のため、家業に専念し、文学活動から離脱することを決意します。しかし、その後も県内外の文学者・文化人の尊敬を集め、棟方志功や草野心平との親交はよく知られ ています。また、夏堀正元や三浦哲郎をはじめ、郷土ゆかりの作家にも大きな影響を与えました。郷里の自然と風物を愛した村次郎は、文学にとどまらず、言語学、民俗学、大須賀海岸の自然調査、 漁業など、幅広い分野に造詣が深く、生涯にわたって調査研究を続けました。




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