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2015年1月4日日曜日

今日から、ふだんの生活に戻ります

 カバの女房が大晦日から娘夫婦、三男夫婦、そして次男のために腕をふるった料理を味わったせいで、体重がどんどん増えています。今朝の朝一便で次男が帰って行ったので、これからは減量していきたいと思います。
 やることがたくさんあります。魯迅箴言、論語の勉強のほか、子規歳時も昨年末からルーティンに加えました。それに、小説書きと川柳の作句、さらには漱石全集の再読などです。他にも歴史書を丹念に読みたいし、数学にも挑戦してみたいと思っています。


 普段の生活に戻ったからには、何から始めるのか。つまり、今、何ができるかを考え、できることから始める以外にないと思いました。
 そこで、論語に関するメモを読み返してみました。いくつかわかったことがあります。
 昨日、東京の友人とお茶をのんで、話をしてきました。かつては、飲み明かしたこともある人でしたが、彼は二年前手術をして以来、酒を絶っているので、最近はカフェで話をしています。1時間か1時間半の時間で、家族のこと、将来のこと、近況報告などであっというまに時間が過ぎてしまいます。友人の病後の経過も順調のようで、ひとまず安心しましたし、これからの仕事についても少しだけ話が進みそうな気配も感じました。
 カバは彼の紹介と指導で、三年前から約半年かけて孔子の生涯を書いた伝記的な小説の校正を手伝ったことがあります。それが、カバの論語にかかわる最大のきっかけとなったのです。論語を勉強するにあたって、その『漂泊の哲人 孔子』(竹川弘太郎著、海竜社刊)を読み返しています。暗記するくらい読んだのに、人間の記憶、とりわけカバの記憶力のなさに驚くばかりですが、三年前のことが甦ってきます。カバ自身もただ漠然と生きてきたわけではないこともわかります。
 いま、再度読み返してみて、この本は、孔子の魅力と論語のエッセンスが余すところなくちりばめられたとてもいい本だと思います。もっともっとたくさんの人に読んでもらいたい本です。
 総選挙があったばかりですが、これからの社会事情が国民、いや市民、そういってもカバのような庶民にあたえる影響は決して明るくないと思われる昨今ですが、そのことと関連して、作家の使命や良心にかかわる文章を再読することもできました。
 それは、日本ペンクラブの会長でもある作家の浅田次郎が航空会社の雑誌に連載している文章でした。カバも4年前に四カ月余り住んだことのある長春の闇について、それを2011年の東日本大震災と福島第一原発の事故後の節電騒ぎに関連付けて書いているのである。長春を十五年ぶりに訪れた浅田次郎は、長州の夜の街をそぞろ歩き、その広く、濃く、しかも深い闇に驚きながらも、梶井基次郎の『闇の絵巻』に思い出し、死にゆく病床のなかにあった梶井が、不安と絶望の闇に勇気をもって踏み込むことによって、明るい場所では得ることのできぬ安息をあたえてくれる、と書いた意味をさぐり、理解と共感を示しているのです。浅田次郎の鋭い洞察力は、そこにとどまらず、歴史のなかで、一作家の個人的境遇だけではない巨大な社会事情が文学作品にもあまねくのしかかっていると考え、梶井も個人の感性と見せかけて、本来文学者が立ち入るべきでない初回事情を作品に託したのではないかと推察して見せています。
 浅田次郎は、文学者も国民の一人にすぎないとしたうえで、同時代に生き、なおかつ親交がある者の突然の死にあたって、その存在と死を自分なりに解析することは、文学に携わる者の良心であり、使命でもあると指摘します。その意味で、芥川や梶井と親交があり、その存在と死を文学的解釈にのみに徹して『末期の眼』に封じ込めた川端康成こそ超人だと評しています。そして、長春の安らかな闇に思いを残して、東京へ戻った浅田次郎は、余分な灯りは消えているものの長春にくらべたいそう明るい東京の夜に、こども時分の東京の夜の暗さを思い出し、懐中電灯や蝋燭が必需品だったころの、安らかな闇を取り戻したと思えばいい、と結んでいます。

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