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2014年6月16日月曜日

ノーマン・メイラーの気持

 人と沢山会うということは新しい出会いの他に、かつて友人だった人、かつて同じ学び舎に通って何年も会っていなかった人と再会する機会に恵まれることでもある。四人の子がそれぞれ独立し、自分の道を歩んでいるとき、本当は静かに、穏やかに、余生を送るつもりでいた。孔子がいうように、政治家とは「斗筲(しょう)の人、何ぞ算(かぞ)うるに足らん」(斗は一斗、筲は一斗二升の升のことだが、そんな升ではかれるような小人物のことは論ずるにも及ばない」というくらい人種だと思ってきたが、まさか自分もその末席を汚さんとするようになろうとは夢にも思わなかった。
 人生最後のチャンスと煽てられ、自らもその気になったまではよかったが、家人には反対され、しかも非協力とまで宣言されても、いまさらあとにはひけず、連日、町内回りと早朝街宣、知友人への挨拶回りを続けている。招かれた会合や、自ら関わる会合には欠かさず出ているものの、一向に実はあがらないまま、時だけがどんどん経っていく。
 人と会い、人の話を聞き、人の目をみていると、相手が自分の鏡であることに気づく。相手の顔、相手の話、相手の目のなかに自分を見出してハッとすることが多い。いかに自分が無遠慮で、生意気で、不躾で、横柄で、傲慢で、わがままで、身勝手で、しつこくて、ダサくて、素直でなく、嫌われていたかがよくわかる。政治家にもっとも不向きな人間であることもわかった。
 政治家にも、ましてや小説家にもなれないことはよくわかったが、かつてニューヨーク市長選挙に立候補して落選したノーベル賞作家ノーマン・メイラーはどんな気持だったのだろうかと考えながら毎日、目を醒ますと勇気を奮い起している。

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