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2013年12月24日火曜日

希望は未来にある


希望は未来にある    (「魯迅箴言」より)

 
地球上の世界は一つではなく、現実の世界の相違は、空想上のあの世とこの世の違いよりもっと凄まじい。

ある世界の人間は、他の世界の人間を、軽蔑し、憎悪し、抑圧し、恐怖し、そして殺戮する。

同じ人類なのだから、互いに理解し合えないはずはない。

だが、時代や国土、慣習や先入観が人の心を覆い隠し、鏡に映るようにはっきりとは、他人の心が見えないことが多い。

地位や、ことさら利害が異なれば、国と国の間はいうに及ばず、同国人の間でも理解しにくいものである。

世界はこんなにも広く、しかもまた、こんなにも狭い。

貧しい人たちはこんなにも愛し合いながら、しかもまた、孤独には安んじられない。

 世間には、いわゆるどうでもいいことなど存在せず、ただあれこれ首を突っ込む力もないため、ある一つのことだけをつかまえて関わるのである。

なぜ、その一つなのか?

それが自分と、もっとも関わりが深いからだ。

無窮の彼方、無数の人々がすべて私とつながっている。

私は存在し、私は生活し、私は生き続ける。

私は自分自身を、より身近に感じ始めた。

闘争は、かえって正しいと思う。

なのに、抑圧されて、どうして戦わないのか?

相手が猛獣のようなら、猛獣のように、相手が羊のようなら、羊のように振舞うのだ。

そうすれば、いかなる魔物も、みずからの地獄へ引き返すほかあるまい。

もし、ライオンなら、どんなに太ったかを誇るのもよかろう。

だが、豚や羊なら、太るのはむしろ良くない兆候である。

我々はいま、自分たちがいったいどちらに似ていると思っているのだろうか。

卑怯な人間が、いかに万丈の怒りの炎を燃え上がらせようとも、弱い民草のほかに、一体何を焼き払えるというのか?

 勇者は怒れば、刃を抜いてより強いものに立ち向かう。

臆病者は怒れば、刃を抜いてより弱いものに向っていく。

救われぬ民族には、決まって少なからぬ英雄がいて、もっぱら子どもにのみ睨みを利かせる。

この臆病者ども!

からかいで敵をあしらうのは、ひとつの有効な戦法だが、その突くところは必ず相手の致命傷でなければならない。

さもなくば、からかいはただのからかいに終ってしまう。

かつて勢力があった者は復古したがり、

いままさに勢力ある者は現状を維持したがる。

勢力がなかった者は、革新したがる。

ほぼそんなところだ。ほぼ!

 河の流れは、もとの川筋に戻ることはなく、必ずや変わりゆく。

現状が維持されることもなく、必ず変っていく。

百利あって一害なしということもなく、ただ利と害の大小が測れるだけだ。

破壊なくして建設なし、これはおそらく正しいのだ。

だが、ぶち壊したからといって、必ず新しく建設されるとは限らない。

旧いものと新しいものには、往々にしてきわめて似たところがある。

革新できない人種は、古いものの保存もできやしない。

実は、革命は、けっして人を死なせるものではなく、人を活かすものである。

革命に終わりはない。

もし、この世に真に「至善に止まる」ようなことがあるなら、

人間世界はたちまち凝固してしまうであろう。

世界が私とともに滅ぶことはあり得ず、希望は未来にある。

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