昨日、川柳句会の投句締切時間を利用して、自転車で駅を通りぬけ、陸奥湾沿いのハーバーウォークロードを八甲田丸からAファクトリー、わらっせ、アスパム、ねぶた小屋、青い海公園、聖徳公園とめぐり、新中央埠頭にでた。そして、北防波堤の燈台を回って引き返した。八甲田は冷たそうな雲に覆われ、姿をかくしていた。カバは、ベイブリッジの下道におり、最後にねぶた研究所を横目で見て、市民ホールまで戻った。奇しくも、4日は寺山修司の命日で、没後30年の記念行事が三沢の記念館で行われているはずだ。佐々木英明が身体ごと震わせて、「修司さんへの手紙」を絶叫しているのだろう。
カバはそのとき、北防波堤の突端で、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」とちいさく諳んじ、13歳から18歳まで中学、高校で同期・同級生だった金澤弁護士のことを想い浮かべた。
金澤茂弁護士には『修司断章』という名著がある。喜寿になった金澤弁護士はいまも護憲の旗を、「身捨つるほどの祖国はありや」と憂鬱な思いを引きづりながら振り続けている。カバが最も尊敬しているひとだ。没後5年の1990年の冬、カバは金澤弁護士から何度も何度も、寺山修司のことを聞いた。そして、寺山修司が青森のことを語ったテープも聴かせてもらった。
カバは思った。「陸奥湾と八甲田山、そして『ねぶた』こそ、青森の人びとにとっては、まさに誇りの源、生きる力なのだ」と。それだけに、青森との合併を住民の民意、住民の意思とは遠くかけ離れたまま強要、強制させられた旧浪岡町の人びとを哀しませ、その誇りの源を失わせ、生きる力を殺いできたのではないか、とそう思わざるを得なかった。
カバはこの日、句会で13句投句して全て没になった。しかたないことだが、1句も選ばれないことは初めてのような気がする。無理もない。アルコール漬けで脳が働かないのと、宿題の10句は二日酔いの寝ぼけ眼で、9時半から一時間弱で作ったものだから、気持が籠っていないばかりか、ただ語句を羅列しただけの句だったからだ。恥ずかしかったが、来月にむけて、精進するしかない。
この日、作句を急いだのは、他でもない、浪岡の花岡荘へ向かうためだった。花岡公園では午後からの桜祭りの開会の準備で忙しそうであった。温泉がつとに有名な、花岡荘の二階では、「鹿内博さんの再選をめざす浪岡グループ」という勝手連の総会(解散式)が10時から行われていた。
カバは、浪岡グループ代表の古村一雄県議が5月2日の自身のブログで、5月1日の「カバのため息」をあえて転載したうえで、カバに対し、暗に選挙へでることなど分不相応なことを考えるな、と皮肉たっぷりに諭してくれたことへの礼を言わなければならない、と思ったのだった。そして、家に残しておいた「大慶び」を持参し、懇親会に供することにした。
カバは古村さんに礼こそ言わなかったが、1日に「止めないけれど、応援しない」と言われたことと、2日の夜、「4日に(浪岡に)来たらいい」との誘いに答えただけでも、返事はしたものと思った。12日に吉野田の木村さんから「梟を観る会」に加藤昌彦さんとともに誘われ、10時に古村さんを迎えに行く約束までしたのだ。
古村さんはかつて、僚友の故桜田一俊さんが、「県議にでたい」と言った時、ふるさとのことを想うなら「まずは市会議員から始めるべき」と言って止めた。結局、桜田さんは、選挙に出ることもなく、病に倒れ、51歳の若さで亡くなった。そのあと、自治労を去り役場にもどった古村さんは、核燃白紙撤回を掲げた金澤知事の誕生をめざし、支えるために、突如として「県会議員にでる」と言って、1990年末、浪岡町役場を46歳で辞めた。たしか、産業課の課長補佐だったと思う。
この選挙で、市会議員を三期半ばで辞した鹿内さんの方は県議に当選したが、古村さんは落選した。このときから、金澤弁護士と鹿内さん、古村さん、そしてカバの奇妙な四角関係が始まった。
このとき、古村さんの決意と決断、そして出馬を無謀と評した人も多かったが、「県議に出て、職場と仕事を失った」彼をカバは、男らしく、頼もしくさえ思ったものだ。その後、古村さんは自動車の免許を取り、弘前に仕事場を求め(連合津軽地協)、そして連合青森の事務局長となって、居を青森へ移した。青森に居た4年余、古村さんのもとでカバはたくさんの経験をさせてもらった。
その後、高屋敷にもどった古村さんは、リンゴと畑作中心の農業に従事するが、周囲が放っておく筈もなく、町会議員となり、二期目も2位当選を果たした。そして、再選後まもなく、青森市との合併問題が起こり、彼の人生はまた大きく変わることとなった。
合併決議が議会で強行されるとすぐさま町議を辞し、「住民投票を求める会」の事務局長として、合併の是非について住民の民意を問うべしとして、住民投票の実施を求めた。彼の目線は、あくまでふるさと浪岡にあり、津軽の中心として位置するふるさとの誇りであった。浪岡のどの地域から眺めても、青森市の海はもちろん、陸奥湾をつつむ八甲田すら視えないのだ。それだけに、浪岡の人びとは、梵珠山から岩木山へと広がる津軽平野を魂の故郷とし、それを誇り、それを源泉として生きてきたのだ。浪岡の人びとに八甲田を誇りの源かと問うても、それは岩木山だという答えが返ってくるに決まっている。海の歓びを知らない人たちにそれを誇れと言っても無理なのだ。
「浪岡の人たちを浪岡に還してあげたい」
カバは花岡荘の二階の窓から津軽平野一帯を見下ろしてそう思った。
懇親会には鹿内さんも公務の合間をぬって駆けつけた。選挙中と違い、顔色もよく、とても元気そうに見えた。おにぎりを美味しそうに食べていた。挨拶に回った鹿内さんが、カバの席の近くに来た時に、5月1日の勝手連の総括会議に加え、19日の「遙」のお別れ会にもどうしても公務のため出席できないことを詫びてほしいと告げた。また、勝手連としてではなく、勝手連の有志たちと、市民のための市政をつくるために政策的な課題について「市長と市民の何でもトーク」という形で語り合いたいとも言った。さらに、遙の元同人として、機会をみて、市政に関してゆっくり懇談の場を設けたいとも語って、他のテーブルに移って行った。ほどなく、鹿内さんは他の公務のために花岡荘を後にした。
カバも海老名鉄芳市議が遅れて懇親会場に顔を見せたのを機に、席を立つことにした。ちょうど12時になろうとしていた。青森からは中村(保険医協会)さん、中道(反核燃グループ)さん、勝手連の女性たち(中村・黒川・対馬さん)三人も顔をそろえていた。
カバは句会で全没になったショックを胸に宿したまま、5時に市民ホールを出て、自転車で堤の千成寿司に向かった。3時からの花見の宴は、昨年に引き続き店の大広間で行われていた。
5時過ぎだというのに、大広間には30人ほどの常連客や千成寿司の関係者が顔をそろえていた。渋谷県議は顔を出していたが、他の会合があるとかで、席を外していた。上林市議は腰痛とかで顔をみせなかったという。カバは三四郎クラブ副会長の和田税理士の隣に腰を下ろした。甲田クラブの石岡事務局長とは入れ違いになった。野球関係者はこのほか、奥谷さん、柿崎先生、大宮さん、須藤さんらの顔もみえた。珍しいのは、寿司屋の主人と同期の木村先生(元浪小教諭、元堤小校長)、甲地(元全逓役員)さんらの顔があったことだ。ほかに青高9回生の木曜会(幹事役の鈴木さんら)の人たちの姿も多くみえた。
最後の最後まで、店に残ったのは、青森ジャイアンツの父母会の須藤(国鉄OB)さんと木村先生とカバの三人だった。元監督の主人の手を握り、「元気で」と声をかけ、つめたい風が桜の蕾をしりごみさせている夜の国道4号線の歩道を浪館へと自転車を走らせた。
途中、古川から浪道へ向かうと、ポツンと「とり平」の電飾看板が目に入った。自転車を停め、中に入ると4人の客。2人は常連客。奥のカウンターに座っている二人連れの男女は初めてみる顔だった。焼酎の水割り2杯、生野菜とハツ焼きを食べ、松井のメジャーでの175本のホームランを観終わったのを潮に800円払い、店主ひとり残して店を出た。
古川中をすぎ、万太郎堰を越え、いつものコースを辿り、西滝川を前田橋をわたって家に帰る。3日の腰の痛みはだいぶおさまっていた。
その夜、カバは3日に続いて、カレーライスを2杯食べて、何もしないで眠った。

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