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2012年7月1日日曜日

『下北半島核景色』のまえがき

カバは1986年5月、チェルノブイリ原発事故のすぐあと、最初の著作『下北半島核景色』を著した。そのとき、カバはまだ36歳であった。あれからすでに26年が経った。あっという間だった。
 今日は、ちょっと恥ずかしいのだが、『下北半島核景色』のまえがき(はじめに)を紹介する。
 「1969年7月21日、人類が初めて月面に到着した。その日、私は20歳になった。あれから17年、世界はスターウォーズ計画とやらで宇宙空間での核戦争の支配をめぐって狂奔している。核戦争の危機は、科学の発展にともなって増々エスカレートしている。科学の発展が生産力の発達をもたらす一方、人類に生活を豊かにしないばかりか、危機を増大させている。
1974年8月25日、原子力船「むつ」が地元漁民の抵抗にあって出港できずにいるのを仙台でテレビで見た。その時、私の故郷で起こっていることに漠然とした不安をおぼえた。案の定、「むつ」は9月1日放射線漏れ事故を起こした。この不安の種の「むつ」はいまだに大湊港に停泊したままである。
 1975年に私は大学院の博士課程を中退し、青森へ戻ってきた。そして、すぐに六ヶ所村の「むつ小川原巨大開発」工業用地がいずれ日本中の原子力発電所などの原子力関係施設から出る核のゴミ捨て場になると直感した。
私のいた大学の隣の研究室では、明らかに下北半島を想定した砂鉄を原料とする原子力製鉄所の建設にむけた基礎研究を行っていた。しかし、現在ではこの研究は止めてしまったとのことである。
 私が故郷の青森に戻ってきてしばらくの間は、自分の学んだことは「ものの考え方、見方」であり、なるべく科学的、専門的なことは表に出すまいと考えていた。それが、1984年1月に下北半島へ「核燃料サイクル基地」建設構想がもちあがり、県や地元が積極的に誘致に動き出す気配が見え始めてからは黙っていられなくなった。しかし、十年近く全くといっていいほど生活に追われ、科学的な知識のほとんどを忘れてしまっているばかりか、資料も何もなかった。
そんな状態のときに、私に資料を集めさせ、勉強し直し、調べたことをまとめるように促してくれたのは当時の青森県労働組合会議事務局長の美濃玲児氏であった。それから一年半の間に、同じような内容のものをいくつかの雑誌に載せてもらった。
 1984年7月に私は東ドイツ(DDR)を訪問する機会を得た。そして、ベルリンの壁を見、ワイマールで国境を警備するヘリコプターを見上げるたびに、「平和」について考えさせられた。東西の緊張は戦後40年融かされることなく続いている。DDR国民は、核兵器の恐怖のなかで絶えず西側の侵略の危機にさらされていた。そうした防衛のための支出がなければ、DDRはどんなに平和で豊かな国であるか知れないとつくづく思った。
 私には四人の子どもがいる。この子どもたちの将来のことを考えると暗然とすることがある。自分の子どもだけでなく青森県の、いや日本の、そして世界の全ての子どもたちの将来は明るいのであろうか。そう想うと居ても立ってもいられなくなる。
 日本には核兵器がない。在日米軍にもないことになっている。しかし、32基の原子力発電所がある。原子力発電所は潜在的な核兵器であると私は考えている。そして、原子力発電所から出るいっさいの放射性物質(ウランとプルトニウムと“死の灰”と呼ばれる放射性廃棄物)を青森県六ヶ所村に集中しようというのである。最大の潜在的核兵器貯蔵庫になろうとしている。その事実をできるだけ多くの大人たちに知らせなければならない。
 そうした視点から、止むに止まれぬ気持で書いたいくつかの文章を一冊にまとめるように自治体運動政策研究所の三浦賢伍氏から勧められた。また研究所の佐藤演主任研究員から、現行の校正に協力をいただいた。」(1986年5月)
 このようにカバは、1986年当時に、原発を潜在的核兵器とし、2011年3月11日の福島第1原発事故を予測し、核兵器による被害と同じ悲惨な状況になると予告していたことになる。

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