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2011年9月20日火曜日

2泊3日の「さよなら原発・さよなら核燃」バス紀行

 16日と17日からの3連休の4日間、カバは忙しかった。まず、16日、核燃料サイクル阻止1万人訴訟原告団の「再処理事業取消請求」の第77回口頭弁論が午後1時半から青森地方裁判所2階法廷で行われた。この裁判で、原告側は、準備書面(105)において「福島原発震災での地震による主要機器の損傷について」を伊東弁護士がプロジェクターを使って論証し、さらに準備書面(106)において「福島第一原発事故後次々と明らかになった「安全審査」の杜撰さと保安院の隠蔽体質」についてを浅石原告団代表と山田事務局長が論説した。この裁判では、被告の国側から準備書面(28)と証拠説明書(23)が提出されたのみだった。裁判の次回期日を2011年12月2日午後1時からと決め、口頭弁論は終了した。
 裁判終了後、記者室で記者会見を行ったあと、原告団のメンバーは新町さくら野デパート前で「さよなら原発1000万人アクション」の署名活動を行った。あいかわらず、街頭での署名呼び掛けに冷たい視線で通り過ぎる市民が多い中で、買い物途中の中年の婦人や親子連れの婦人たちが署名する姿がこれまでになく増えたのを感じた。女子高校生や中には中学生も署名してくれた。「私たちの署名でもいいの?」との声は、まだ有権者に達していない少女の遠慮と、それを振り切ってまで署名する強い意志を感じ、素直に感動した。それと同時に、彼女たちの未来のためにカバたち大人は何をしなければならないか、はっきりと自覚させられたのだった。それにつけても、新町を目をそらし、無言で通り過ぎる背広姿の男たちは、いったい何を考えているのだろうか。マイクで署名を呼びかけていた原告団の女性メンバーからそう問われ、カバは思わず「てれているんじゃないか」と自分の本音を吐露してしまった。
 16日はそれだけで終わらなかった。17日には朝から、原告団の年1回の総会で、総会終了後に福島第1原発事故の現地から講演会も行われる予定で、講師も夜のうちに到着ということで、その講師を交えての交流会も予定されていた。講師の古川さんは、長らく福島県議会議員を務めておられるベテランで、郡山市の選挙区で反原発・脱原発の先頭で戦ってこられた人だった。3・11の事故以来、福島第1原発事故によって汚染された福島県民は、外部被ばくはもとより、内部被ばくの今後の影響におびえながら暮らしていると語った。とくに、郡山市内の小中学校区の表土からかなり高濃度の放射能が検出されていて、表土をはぐ作業がその表土をどこに仮置きするのかという問題とあわせ、大きな課題となっているし、小・中学生をそのまま市内の学校に通わせておいていいのか、毎日が不安でならないと語っていた。
 放射能測定器の圧倒的な不足とそれを分析できる人のさらなる不足している体制のなかで、いまなお、放射能を外部にまき散らし続けている福島第1原発の1号機から4号機の存在は、そのまま福島県民、とりわけ福島に住み、福島で生きている子どもたちに放射能による死の恐怖という暗い影を投げかけ続けている、静かに怒りをこめて語った。また、古川県議は、自らも病身の身でありながら、一身をなげうって、すべての原発を即時停止させるために、いまの福島の惨状を訴え、青森の核燃料サイクルをやめさせるためにも、ともに共闘したいとも語った。
 17日の総会、そして講演会も成功裏に終了した後、同日の夕方には、青森ペンクラブの「青ペンサロン」が柳町のカネ〆であった。「もしも、…に生まれたら、こうしたい」というテーマであった。テーマに興味はなかったが、ペンクラブの仲間に4カ月ぶりに会えるのが愉しみで参加した。会長、副会長をはじめ、壬生、拓、閑女さんら18名が元気な姿をみせていた。しかし、北狄のメンバーの姿が見えないのが寂しかった。とにかく、それが気になった。
 17日午後から断続的に降り続いた雨は、18日には一層強くなり、カバは朝から夜の8時まで、デスクのパソコンに向かい、「中国の論理」の日本語での読み替えを行った。そして、強い雨の中、ツアーの集合場所まで車ででかけた。
 青森市青柳の「さよなら原発5万人集会バスツアー」の集合場所に着いたのが、午後8時55分だった。バス2台に分乗した47人のツアー参加者は、それぞれの思いを胸に、午後9時2泊3日の旅に発った。
 大宮の健康ランドで湯につかり、朝食と休憩をとったあと、千駄ヶ谷の明治公園に到着したのは午前10時40分だった。カバは原告団の幟旗とポールをバスから降ろし、ツアー参加者とともに集会場の舞台正面前列中央に場所取りをした。すでにアクション本部や舞台の設営は終わり、1000名以上の参加者が舞台の周りに集まっていた。集会は午後1時から前段ミュージックに始まり、1時半からセレモニーとなる予定であった。5万人集会というものの、果たして何万人が集まるのか不安だった。雨が降らないことを祈り、薄く広がった雲に熱を遮断してくれるよう頼んだ。
 陣取りした場所に1時までに再集合ということで、11時に昼食のための一時解散となった。幟旗とポールの管理を居残りの事務局に頼み、カバは、青森からのツアー事務局の二人と明治公園向かいの国立競技場のなかのレストランに入った。外気は30度近くに達し、蒸し暑くだるくなった身体を休めるには格好の場所だった。レストランは冷房が25度くらいに設定されていて、ゆったりと丸テーブルに陣をとり、カバ生姜焼き定食をたのみ、他の二人はかつ定食をたのんだ。
 12時が過ぎて、カバたちはレストランの階段を降り、向かいの明治公園に向かった。わずか1時間の間にどんどん人は増えていた。カバが合流する予定の核燃料サイクル阻止1万人訴訟原告団のメンバーは皆、18日に新幹線で上京しており、19日の12時半に明治公園の競技場側の多機能トイレ前であったが、カバが競技場から出てくると、そこには使用順番待ちをする長い列ができていた。
 12時10分に会場の陣取り地点についた。すでに、1万人から2万人の人が舞台を取り囲んでいた。原告団や各市民団体のめいめいの幟旗をポールに通し、その場所に座り込んで、他のツアー参加者が集合してくるのを待った。12時45分、オープニングミュージックのための音合わせが始まった。どんどん参加者が会場を埋め尽くし、身動きが取れない状況になっていた。原告団の他のメンバーとの合流は難しくなってしまった。
 1時にオープニングミュージックが会場に響き、1時30分にセレモニーが始まった。最初に挨拶したのは、評論家でありドキュメンタリー作家の鎌田慧さんで、「子どもたちの未来に原発と核廃棄物を残すな」と1000万署名の成功を唱え、ついでノーベル賞作家の大江健三郎さんが「広島長崎につづく悲劇が福島で起こった。原発をすべて廃止することはすぐれて民主主義、市民のデモでそれを成し遂げよう」と訴えた。また、経済評論家の内橋幸人、パーソナリティで作家でもある落合恵子、評論家の澤地久枝さんが呼びかけ人として次々に挨拶した。俳優の山本太郎さんも飛び入りゲストとして登壇し、「生きるために、原発は必ずなくさなければならない」と強調した。この後、ドイツからも脱原発の報告がなされ、最後に現地福島から被災地報告がなされ、6万人の参加者による代々木公園までのデモ行進に移った。
 青森県からの参加者は現地で合流したメンバーも含め約60人が「さよなら原発5万人アクション」の横断幕を持ち、「原発をはじめ、核燃サイクル・再処理もやめさせよう」とデモ行進中段グループの先導をすることになり、カバも横断幕を手にデモをすることになった。
 カバは右手で横断幕を支え、左手に「再処理工場の中止を」と書かれた幟旗を持ち、明治公園から神宮外苑、原宿駅前を通り、代々木公園までのデモコースを整然とシュプレヒコールを繰り返しながら行進した。約1時間ちょっと、汗びっしょりかいた。
 カバは代々木公園からまた同じバスに乗車した。バスは帰り道、明治公園までの道すがら、デモ行進の市民たちと手を振って交流した。デモの先頭は3時半に出発したのに、帰りのバスが明治公園を通り過ぎたとき、まだ最後尾のデモ隊は続いていた。70年安保のときのデモ以来の大人数のデモのような気がした。大江健三郎さんのいう、「今日をきっかけに、日本の民主主義が変わる、市民としてデモが始まった」という気がした。
 ツアーの最後は、浅草の浅草寺の裏手にある観光客用の宴会場でうどん弁当を食べ、帰路に着いた。カバは記念に佐野のインターで生ラーメン3袋を土産に買った。そして、ほとんど眠れなかったが、バスは小雨降る中、今朝の4時半過ぎ、まだ夜が明けきらない青柳の集合場所に戻リ着いたのだった。
 今回のツアーで同行したなかに昔の古い仲間がいて、少し言葉を交わした。1月の市会議員選挙で落選して意気消沈してすこし回復基調にあるI氏、病院が診療所に格下げされ多くの職員が去る中、ひとり孤軍奮闘のH氏、公立病院の再編が進む中、専従期間を終え、まもなく市民病院に復帰するYさん、合併により町職員から市職員になり組合役員を続けるHさんの4人である。他にも、たくさんの人たちと会いふれ合うことができた2泊3日の旅だった。

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