カバは61年前、青森市浜町で生まれた。実家は提灯屋だった。生まれたとき、提灯屋の店はなかったが、土蔵の蔵だけは残っていた。その蔵は生家の跡地に10年前までは残っていた。今は、もう跡形もなく、別の建物になっている。カバは2歳のとき、浜町から長島に引っ越しした。そして、大谷幼稚園に3年、長島小学校に6年間通った。
カバは高校を卒業して、秋田市に4年、仙台市に3年いて、青森市に戻った。中学二年の夏休みに、家は長島から三内に移った。カバは7年ぶりに青森に戻り、三内の家に帰った。三内の家は駅から5キロも離れ、静かではあったが、何かと不便だった。カバの勤め先は浜町の隣の本町にあった。毎日、生家の跡地のそばを通勤した。そんなこんなで、カバは浜町の生家か、長島の近くに家を持ちたかった。しかし、それは自分の力で果たすことはできなかった。
カバには4人の子ができた。みな東京に進学した。結局、その後、30年前に親の建てた浪館の家から出ることはかなわなかった。三内と浪館の家を処分し、浜町か長島に新しく土地を購入し、家を建てるつもりであったが、果たせないまま子どもたちは家を離れ、とうとうカバ自身も定年をむかえてしまった。
定年後の再任用の仕事をしていたところへ、降ってわいたように中国行きの話が舞い込んできた。旧満洲国の首都だった長春(旧名は新京)市に4カ月と1週間住んだ。そして、暮れもおし迫る12月30日の夜遅く新幹線で新青森駅に着いた。4人の子のうち、ただ一人青森に戻った三男が出迎えてくれた。
新しい年になって、旧上司の選挙の連絡事務所の一角を借りることになった。場所は長島の隣の古川にある友人の不動産会社の二階であった。その事務所に通いながら、文学に関する新しいことをやるつもりだった。毎日、家に籠もるのも精神的に厭だった。しかし、カバの考えは浅はかだった。当然のこと、選挙に関係する事務所なのだから、やはりのんびりと読書をしたり、書き物をしたりというわけにはいかなかった。3月11日の大震災もこの事務所で経験した。そんなこんなで、わさわさと3月が過ぎ、4月になり、選挙も終わった。元上司は再び当選した。カバは選挙が終わり、そのまま事務所を借りることにした。自分ひとりの事務所にした。不動産の友人に三内の家の借主を探してもらい、その賃料の一部で事務所の家賃にしてもらうことにした。
こうして、カバは長年の念願だった母校の長島小学校のすぐ近い所に事務所を個人で借りることができた。昨日は大家の友人に挨拶だけだったが、今日がその初出勤の日だった。新しい生活にこだわりを持つことにした。一日1個ジャムパンと1個のリンゴを食べることにした。カバは初日から失念した。昼飯のジャムパンを家に忘れてきたのだ。カバはがっかりしなかった。事務所から歩いて5分ほどに長島小学校6年7組のクラスメートの昇君がやっているラーメン屋があるからだ。ジャムパンは夜食にすればいいと思い、本家の丸海ラーメンの暖簾をくぐった。昇君は汗をかきながら親伝来の中華そばをつくっていた。「お前、いいときに来た。今日はおれの誕生日だ。帰りにチャーシューを持っていけ」と冷蔵庫からビニル袋いっぱいのチャーシューをくれた。カバは、「今日から、いいことが続きそう」と大震災で心が沈んだままだったのが嘘のように感じた。

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